ジャズ,という会話の端が聞こえたのか,スシ屋の板前が,『ファッツ・チューズデイ』にヘレン・メリルが出るんですけどね,と話しかけてきた。
わたし達は十分ほど白人ボーカリストについて話した。板前はヘレン・メリル,音楽家はイーディ・ゴーメ,わたしはクリス・コナー,がベストだと言った。じゃ店を閉めたら『ファッツ・チューズデイ』に行くの?と音楽家が聞き,板前は首を振った。
今のヘレン・メリルはあんまり好きじゃないんですよ,そう言った。
『バイ,バイ,ブラックバード』が好きだったんですけどね・・・
「あ,思い出した」
と,スシ屋を出て,途中のバーで飲んでいるとき,ふいに音楽家が言った。
何だい?
「映画ですよ,タイトルも内容も思い出せないんだけど,『刑事コロンボ』のコロンボ役,誰でしたっけ?」
ピーター・フォーク,
「彼が主役じゃなくて脇役で出ててね,確か,イタリアかどこかの激戦地へ向かうシーンなんですけど,仲良くなったイタリア娘を何人かトラックに乗せてて,一緒に『バイ,バイ,ブラックバード』を歌うんですよ,教えるような感じで」
いいシーンだね,わたしもその映画をどこかで観たような気がした。
「変な話ですけど,LSDとかやったことあります?」
残念ながらないんだよ,
「幻覚剤全盛の頃じゃなくて,ずい分遅れてボクはロンドンでやってみたんですけど,三回くらいひどいバッドトリップになって,その時,恐怖の象徴が,ブラックバードだったんです」
恐怖の象徴って?
「何て言えばいいのかな,幻覚で黒い鳥が見えるってことじゃなくて,常に,ドアの向こうとか窓の外とか屋根の上に,見たこともない黒いでかい鳥がいるっていう感じなんですね。その全体は決して見えないんだけど,こう,翼を拡げて,じっとこっちを見てるっていう」
気味が悪いね,暗示的だね,死ってことなのかな?
「うん,そうだと思う,でもとても不思議なんですけどね,死っていうのは,死んでしまったら,ないわけですよね?」
えっ?
「こうやって生きているから死っていう概念があるわけでしょう?死んでしまったらその人にはもう死ってないんですよ,だから変な話だけど死のイメージを持ってる間は生きてるってことなんです」
映画の話に戻るけど,ピーター・フォークは・・・
「戦死したのかってことですか,そう,イタリア娘に,楽しそうに,もちろん最前線に行くんだから本当に楽しいわけはありませんけどね,日本映画だと出撃前のドンチャン騒ぎみたいになっちゃうんでしょうけど,ピーター・フォークは,顔のどこかに悲しみを秘めて,あくまで陽気に歌って,それで戦死するんです,最後のあたりでね」
どういう歌詞だっけ?
「あんまりよく憶えてないんだけど,これから旅立つんだ,みたいなやつでしょ?これからいい事が起こるような気がして,好きな人の待ってるとこへ行くから,不幸の象徴の黒い鳥さんさようならって歌ですよ」
メジャーの曲だよね,
「とても楽し気にみんな歌いますよ」
じゃあさ,それ,今から死んでいくって人の歌なのかな,わたしはそう言ったが,音楽家は返事をせずに,下を向いて黙ってしまった。
心配事も,深い悲しみも,
全部トランクに仕舞い込んで,
さあ,出かけましょう,
小さな声で歌いながら,
「バイ,バイ,ブラックバード」って,
どこかで誰かがわたしを待っている,
甘い甘い,お砂糖のような誰か,素敵な彼,
さようなら,黒い鳥,
バイ,バイ,ブラックバード,
いつもブルースを聞かせてくれたわね,
ここには,誰もいなかった,
愛する人も,理解してくれる人も,
ひどい人生を送ったものね,
ベッドの用意と,灯りをお願い,
そして,黒い鳥に,もう一度,
さようなら・・・
(村上龍『恋はいつも未知なもの』より「黒い鳥よ,さようなら」)
Peter Michael Falk
September 16, 1927 – June 23, 2011