都市の緑は誰が創るのか
- 2011年 6月 2日
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ある技術系の雑誌に,とても興味深い話題が取り上げられていた。
「東京にはなぜ緑の空間が多いのか?」そして「大阪はなぜ緑が少ない?」
普段から多くの人々が見ている東京地下鉄マップ。
鳥の目になって俯瞰してみると,意外なほど緑地空間が多いことに気がつく。
皇居と北の丸公園,上野公園,六義園,小石川後楽園,新宿御苑,代々木公園,日比谷公園,浜離宮,芝公園,国立自然教育園,そして明治神宮,護国寺・・・
・・・歴史を紐解いてみる。
皇居と北の丸公園は言うまでもなく徳川将軍の居住城で江戸幕府の拠点,明治以降は天皇家の御所となり現在は宮内庁の管轄となっている。
上野公園は寛永寺の境内が明治時代に宮内庁の管轄を経て大正に東京市へ下賜。六義園は5代将軍綱吉から下賜された土地が岩崎弥太郎の所有を経て東京市へ寄付された。浜離宮は6代将軍家宣の庭園が皇居の離宮となったあと東京市へ下賜された。国立自然教育園は高松藩松平家の下屋敷が宮内庁の御料地となり現在は文科省の管轄。
小石川公園は水戸家の上屋敷。新宿御苑は高遠藩内藤家の下屋敷。日比谷公園は松平肥前守の上屋敷。どれも現在は東京都の管轄下にある。芝公園は増上寺の境内であったが,戦後の政教分離により東京都の管轄となった。
護国寺は5代将軍の綱吉が創建。明治神宮は明治天皇を祀る神社として創建され,靖国神社は戊辰戦争で亡くなった人を祀る神社として創建され現在に至っている。
東京プリンスパークタワー。芝公園の敷地内に建つ。
空間そのものが好きなホテル。設計は丹下健三の息子,丹下憲孝。

寺社を除いた都内の緑地は,江戸時代の将軍や大名たちが造り,行政が引き継いで存続しているものばかりであることが分かる。
それに気づくと「なぜ大阪には緑が少ないのか?」という疑問も自然に解けていく。
大阪には緑が少ない。
もちろん,大阪城や中ノ島公園や御堂筋や谷町筋の寺には緑がある。しかし,それらは東京に比べればはるかに少ない。東京を散歩していると,大小さまざまな緑の空間に出会う。緑あふれる公園のベンチでひと休みしてまた歩き出す。東京都心での散歩は緑の空間との出会いが繰り返される。ところが,大阪市内の散歩ではなかなか緑の空間と出会えない。
大阪の人々が緑を愛していないわけではない。市内のどの路地に入り込んでも,狭い軒先に小さな鉢植えが何段にも置かれ,季節の花があふれんばかりに咲いている。それなのになぜ,大阪には緑の空間が少ないのか。
江戸時代,当時の権力は江戸に集中し,江戸市内には全国の大名屋敷が軒を並べていた。それに対して,大阪は天下の台所と呼ばれ,庶民の街であった。
いつの時代も,世界中どこの街でも,庶民の家は狭かった。庶民が集まり,庶民の住居が建てられていくと,かつては大きかった区画は,いつのまにか細分化され,歴史の跡や緑の空間は失われていった。
その代表的な都市が,大阪の堺市。堺は,高校の歴史の授業で必ず習う。武力を持たない商人たちが,戦国大名たちと対等に渡り合った「市民都市・堺」は印象深い。市民都市・堺の主役は庶民であった。庶民は広大な土地など保有できない。もし保有できたとしても,その土地を何十年も何百年も維持できない。庶民の町の堺では,庶民によって土地は細分化され,史跡や緑は次々と潰されていった。それに対して,江戸では大名たちが広大な土地を保有し,それを何十年,何百年も維持していた。
140年前,日本は幕藩封建社会から国民国家への変身をはかった。江戸が東京になり,日本社会の主役は庶民となった。その東京から大名たちは消え,その子孫たちは広大な屋敷を手放し,広大な屋敷跡は細かく分割されビルが建ち,史跡と緑は消えていった。激しい近代化の中,国や東京都など行政が引き継いだ空間だけが,どうにか21世紀まで存続し,地図に記される緑となった。
21世紀の今,あらためて歴史を掘り起こし,緑を大切にしたいという人々の思いが顕在化してきている。しかし,もうこの時代に将軍や大名のような権力者たちはいない。今,都市を造るのは行政であり,大規模な民間開発者である。歴史と伝統文化を引き継ぎ,緑豊かな都市空間を創り出すのは,行政と民間開発者に託されてしまった。都市づくりにおけるその役目と責任は大きい。
















